義士祭

2017年12月18日 08:00

上山 典之
上山 典之
こんにちは、篠山店の上山です。
年末が近づき朝晩めっきり冷え込んできました。皆様は体調いかがですか。
私の中ではこの時期といえば、忠臣蔵で有名な赤穂浪士、昔はこの時期になると必ずと言って良いほどテレビドラマで放映してました。
先日、篠山市古市のお寺様に年末のご挨拶に伺った時、境内にある大きな顕彰碑に目が止まりました。碑には「不破数右衛門正種(ふわかずえもんまさたね)之碑」と刻まれてあります。数右衛門は赤穂四十七士の討ち入りメンバーの一人で、一説によると討ち入りで最も多く敵を倒した男とも言われています。
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数右衛門の実父は播州の人で、岡野治太夫といい治太夫の妹「熊」が古市の庄屋の「鍵屋」に嫁いでいた為、年老いた治太夫夫婦は鍵屋の縁寺である宗玄寺に身を寄せることと成りました。
数右衛門は赤穂藩浅野内匠頭に任えていましたが、故あって主家を去り浪々の身となっていた時、あの有名な江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ事件の後、内匠頭は切腹、領地没収が起こりました。
その後、赤穂四十七士の吉良邸への討ち入りが決まり、三々五々江戸へ下向する際に数右衛門は宗玄寺にほど近い不来坂峠に立ち寄り、長男長女を母に託し、母と永別をしました。
母は討ち入り決行を悟り「もし、復讐の拳あらば、この襦袢を着て母とともに本懐を遂げるよう」と自分の長襦袢を託し、尽きぬ名残を惜しむのでした。
数右衛門はそのまま江戸へ帰り、復讐の当夜を迎え、女物の襦袢を着る数右衛門からその訳を聞いた同士の大高源吾は、その由来を聞き感銘して、襦袢の背に中国の詩人の白居易(はくきょい)の詩の一節を書き記しました。
「松樹千年遂是朽 槿花一朝 自 為栄」
数右衛門自刀に先立ち、松平公より特に遺言が認められ、襦袢は母に、小刀は長男大吾朗に、笄(こうがい)は長女つるにと遺言され遺族に届けられましたが、明治になって鍵屋の没落による混乱にあたって行方がわからなくなりました。現在は白襦袢のみが複製され保存されています。
長男の大吾朗は父の冥福追善のため出家し三河の永昌寺に入りました、長女のつるは御影の照明寺へ嫁ぎました。
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今から315年前の出来事で、今でも関連地で慰霊が行われ語り伝えていく事が続くよう願います。
また久しぶりに忠臣蔵見ようと思います。

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